雲の上の蛙。三行日記。

井戸にいるより雲のように浮かんでる蛙が書く三行日記。

2019/06/03_おまけ_とある音楽活動が断たれる(ように見える)時

初めて、三行日記以外で記事を書き残そうと思った次第。

なので、少し書き殴る。(タグをとりあえず「書き殴り」で)

sinonomeflog.hatenablog.com

上の記事中の以下発言について、今語れる事を、なるべく有名な言葉を使わずに書いてみようと思う。有名な言葉を使うと、その言葉のイメージが強すぎて、自分の語りたいことが薄れてしまう様に思えるため。ごめん、ワガママかもしれないが、今は。

大切なライブには、無事参加できました 今は、詳細を語るには自分の覚悟ができていないので、詳細は控えさせてください

2019/06/02_旅行所ではなくなった - 雲の上の蛙。三行日記。

さて、なぜこれが 大事なライブ かというと。

これは「とある音楽活動が断たれる時」になるか、ならないか、そういう瞬間に出会ったライブでもあったからだ。

結果は、続く事になりそうで自分はそれを応援したい。

「断たれる時」になった原因についてはここでは述べない。

ただ、音楽に限らず、何かを行う、何かを始めるということは、同時に、ある日にはそれが無くなってしまうリスクも抱える事になる。

今続けている三行日記だって、自分が「辞めよう」と思った時には突然と無くなってしまう。

ただそもそも、三行日記を非公開のままにしてたら辞めても影響はないが、公開していて、突然無くなってしまったら、その三行日記を読んでいた人にとっては少なくとも「辞めてしまったのか」という印象を持たれる事となる。

話を元に戻すと、とある音楽活動が断たれる時というのは、少なくともその音楽を愛していた人(少なくともその音楽をしていた当の本人はその中に入る)にとって、とても大きな影響を与える事となる。

ここで自分は単に「音楽活動を断つな」という事を訴えたい訳ではない。

むしろ、原因がなんであれ、とある音楽活動が断たれる(ように見える)時 は、その音楽活動にて影響を与えた人達のこと(自分自身も含めて)を出来れば思い出して、そして、出来ればでいいので少しだけ思いを馳せてほしいのである。

この言葉は、第三者だけではなく、過去の自分自身に対しても戒めの意味でいっている。

この時点で、思いを馳せる余裕がないのであれば、むしろ潔く活動から身を引いて、距離を取って、「音楽活動を絶った自分」と向き合ってほしい。

それができなかったのは、過去の自分自身だ。

自分は単に「クラブ活動にのめりこみすぎた」という体で、原因がなんであれ思わしくない進路に進み、それを勝手に「音楽」だけのせいにしてたけど、それはただの「今しない」という言い訳になってしまっていたと、思っている。

当時は「音楽をしない自分」がどのようになるのか、それは「音楽を続けている自分」より幸せなのか、また周りを幸せにしてあげられているのか向き合うことができなかった。

向き合う事が出来ていないと「断たれた」事による未練は回りに回って、他人への羨みとか嫉妬とかに変わる気がしている。

んで、他人は変えられないので、結局自分が苦しむ事になる。

とある音楽活動が断たれる(ように見える)時。その時こそ、自分、そして、その音楽活動を愛してた人達と向き合う時なのではないかと思う。

今回、大事なライブを見れて、向き合ってくれる人達の姿が見れて良かったと思う。

後、思い残すことがあるとすれば、今回掘り下げた記事では言及していなかったけれど。

突然消えてしまった音楽に対しての未練タラタラでこの文章を書いていたのだと思う。

音楽を辞めてしまった人へ。

もし未練があるならば、なぜ辞めてしまったのか、教えてほしい。どこでもいいから吐いて楽になれるのならば吐いてほしい。

書き殴り終わり。